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おんじん
恩人
豊島 与志雄
「帝国文学」1914(大正3)年5月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 13,268 字 · 27 页
それを知ってか知らないでか、叔父はやはりじっと風景画に眼を据えていた。一つのソナタを終えて続け様に、も一つのソナタに進んだ時、叔父の顔にかすかな痙攣が見えた。それが彼の心にある特殊の苦悶を伝えた。彼は音楽の曲も、殆んど耳には入らないで、大きい樫の木立が並んだ画面に見入った。そして叔父のそれを見つめている心持ちが分って来たような気がした。画面から来る崇高なる感じと、叔父に対する悲壮なる感じとの合間合間に、高尚なそして無邪気な恍惚のソナタの旋律が※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)まる。それが魅せられたような苦悩の形をとって彼の心を飜弄した。
と突然、騒然たる楽の音がして、妻はピアノを離れ、彼の傍の長椅子に身を投げた。
「何だか指が思うように動きませんので。」と彼女は云った。
彼は彼女の敏感に驚いた。そして早く止してくれたことを心のうちで感謝しながら、そっと彼女の指先を握りしめた。まだじっと画面を見つめていた叔父が眼をそらしてこう云った。
「久しぶりで音楽をきくと妙な気がするもんだね、何だか過ぎ去った時というものが逆にもどるようで。