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おんじん

恩人

豊島 与志雄

「帝国文学」1914(大正3)年5月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 13,268 字 · 27 页

青空文庫

叔父はまだたえ子の姿を心の奥に秘めているのではないだろうか、と彼は思った。

然し彼が見たのは何故? との問題ではなかった。どうにかしなければならない、とそう思った。そして彼の前に広い空間が拡がった。その中に叔父が居る、彼自身が居る、そして妻のたえ子が居る。

彼は立ち上って、手紙を持ったまま妻の室に行った。彼女は手娯みの刺繍をやっていた。夫の姿を見てその顔を見守った。その眼が「何か御用?」とこう云った。

彼は妻の傍に坐って黙って手紙を差出した。

「これを読んでごらん。」

彼女は手紙を受け取って裏を返してみた時、顔を上げて彼の眼をじっと見た。それから事もなげに中を披いて読み下した。

「ほんとでしょうか。」と彼女は云った。

「だって昨日の夕日は綺麗だったじゃないか。」

「では今日被入るのね。」

「ああもうすぐ御出でになるかも知れないよ。」

「そうね。」

彼は妻の顔を見つめてやった。何だか自分と関係もない他処の女を見ているような気がした。お前は誰だときいてみたいようにも思った。そしてこう云った。

「叔父さんからお前の処へ別に手紙はなかったかい。」

「いいえ何にも。」

その時彼は過去のことを思い出した。