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あるおとこのしゅき
或る男の手記
豊島 与志雄
「中央公論」1924(大正13)年1月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 43,279 字 · 86 页
そこへ松本がふいに姿を現わした。彼は座敷へ通されるのを待たずに、私達がいる茶の間の方へ自分からやって来た。その自信ありげな露わな眼付を見た時、私の気持に不思議な変化が起った。今までもやもやと立罩めていた霧が急に霽れて、自分の周囲がぱっと明るくなったような心地だった。そして私の頭には、三人の子供を隣室に遊ばせ、台所に女中を控えさし、妻を側に坐らして、その真中に納まりながら――何の能もない自分が家庭という巣の中に納まり返りながら、酒にほてった赤い顔をし、額に泰平無事の快い汗をにじまして、ちびりちびり晩酌をやってる、おめでたい自分の姿が、一瞬の間はっきりと映ったのである。それは単にその晩だけの姿ではなくて、これまでの良い家庭生活を通じての、総括的な自分の姿だった。私は突然或る反抗心に駆られて苛立ったが、それに光子のことがからまってきて、次の瞬間には、反対にぐっと皮肉に落着いてしまったのである。
松本は私に一寸挨拶をしておいてから、いきなりこう云い出した。
「奥さん、光子さんは帰っていますよ。」
それを聞いて、俊子が変にぎくりとしたことを、私は後になって思い出した。