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あるおとこのしゅき
或る男の手記
豊島 与志雄
「中央公論」1924(大正13)年1月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 43,279 字 · 86 页
恐らく彼女は、私と松本との話を聞いてるうちに、何となくそれだけの決心を強いられたものらしい。そう私は咄嗟の間に感じて、何故となく不安の念に駆られてきた。
「勿論お前が行ってくれなければ、外に一寸行く人はないんだけれど……。」
「だから私が行きますわ。ねえ、松本さん、それでいいでしょう?」
「ええ。済みませんが、そうお願いします。」と松本はきっぱり答えた。
私は自分の立場が急になくなったような気がした。と一方には、それを自ら皮肉に顧みる気も起って、松本に杯をさしたりなんかしながら、こんなことを云ったものだ。
「そうきまったからには、もう君も心配しないでいいよ。なあに場合によっては、河野さんと一談判したって構わないし、僕達で君達二人の間の媒妁人になってもいい。」
何て馬鹿なことを私は云ったものだろう! 心ではつゆほどもそんなことを思ってはしなかったのだ。明日一杯明後日までには何とかなるだろうという約束で、松本が再び元気づいた自信ありげな眼付をして帰っていった後、私はなお酒の燗を命じてちびりちびりやりながら、そんなにお目出度く事件が片付くものかと考えて、理想主義者の松本のために――この理想主義者だということが、なぜだかその時私にはひどく必要だった――彼理想主義者のために、軽蔑的な苦笑が自然と浮んできた。