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あるおとこのしゅき

或る男の手記

豊島 与志雄

「中央公論」1924(大正13)年1月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 43,279 字 · 86 页

青空文庫

」

その絶望的な憤激が、私の方へ向けられないで、彼女自身の方へ向けられてるのを感じて、私はその隙に乗じようとした。

「そういう風にお前は、自分自身をいじめているが……実は……。」

「いいえ、」と彼女は私の言葉を押っ被せた。「実はだの本当はだの、そんなもの何もありゃしないわ。何にも……。私はただこうなっただけよ。あの時からもう……。」

「それじゃなぜ、今日やって来たんだい?」

「あなたが是非来いと仰言るから……。」

「それだけ?」

「ええ、それだけよ。」

乾ききった唇を少し歪め加減にくいしばって、彼女はじっと私の方を見つめた。色褪せた菊の花の影から、先の尖った大きな鼈甲の簪が細かく震えているのが、しきりに私の心へ触れてきた。私は立上って少し歩きながら云った。

「僕は今日、お前と喧嘩をするために此処まで来て貰ったのじゃない。ゆっくり落着いて話してみたかったのだ。お前の心をよく聞いてみたかったのだ。お前の心次第で……。」その時私の頭に非常な勢で新たな考が閃めいた。「初めはあんな風だったけれど、何にも囚われない自由なのびのびとしたお前に、僕は……恋したのかも知れない。