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おしえのきせき
押絵の奇蹟
夢野 久作
「新青年」1929(昭和4)年1月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 58,749 字 · 114 页
そのニコニコと歩いてお出でになった横顔を私は今でも眼の前に思い浮かめることが出来ます。
お父様をお見送りしますと私は、お床の間に立てかけてあった琴を出して昨日習いました「葵の上」の替の手を弾きはじめました。お母様はお台所で髪を上げておいでになったようですが、私が「葵の上」を弾いて、「青柳」を弾いて、それから久しく弾かなかった「乱」を弾きますと指が疲れましたので、四角い爪をいじりながら西向きのお庭の泉水に咲いているお父様の御自慢の花菖蒲をボンヤリ見ておりましたが、今までカンカン照っていたお日様に雲がかかったかしてフッと暗くなりました。お台所の物音も止んでいたように思います。
その時に玄関の格子戸を荒々しく開く音がして誰か這入って来たようでした。私は何故ともなくハッとして立ちかけると間もなく、お父様がツカツカと這入ってお出でになりましたので私は又ビックリしまして、
「お帰り遊ばせ」
と手を支えました。このような事は今までに一度もありませんでしたので、いつもお帰りの時には玄関にお立ちになって、
「おお……今帰ったぞ」
とお母様をお呼びになるのでした。
お父様のその時のお顔はまるで病人か何ぞのように血の気がなくて幽霊のようにヒョロヒョロしておいでになったようです。