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りゃくだつせられたるおとこ

掠奪せられたる男

豊島 与志雄

「新潮 第二十九卷第三號」新潮社、1918(大正7)年9月1日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 23,398 字 · 48 页

青空文庫

然しふくよかな香気に包まれた秀子は、にじみ出してくる汗をも知らないらしかった。ふり返って通る人々の視線のうちに、彼女は晴々とした顔を上げて、山田の方を顧みた。

「なぜ黙っているの? 何か怒ってて?」

山田はそれに答えるに、ただ苦笑を以てした。

「余り下らないことばかりお饒舌したわね。御免なさい。私あなたの側に居ると何もかも、頭の中のことはみんな云ってしまいたくなってよ。ね、それでもいいでしょう。でもあなた長く覚えていては嫌よ。忘れて頂戴。ねえ、忘れると云って頂戴。さあ忘れるとたった一言でいいわ。」

「いいじゃないですか。僕だってあなたが云ったことを皆いつまでも覚えているものですか。」

「でも、いや。いや。はっきり云わなきゃいやだわ。」

「ではすっかり忘れます。」

秀子はにっこと微笑んだ。

「ではだけ余計だわ。でもそれ位我慢してあげてよ。」

二人はその晩また可なり遅くまで歩き廻った。そして或るカフェーにはいって、紅茶と菓子とを食ったりした。

山田は麦酒を一杯のんだが、秀子は飲まなかった。

紅茶の匙をつまみ上げた秀子の指先がいつまでも山田の頭に残った。ニッケルの金属の光りに絡んだ彼女のしなやかな指先は、丁度めがねで覗いた海底の蛸の足のようであった。