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しんぱん ほうろうき

新版 放浪記

林 芙美子

「女人藝術」1928(昭和3)年10月号~1930(昭和5)年10月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 247,330 字 · 497 页

青空文庫

尾道の千光寺の桜もいいだろうとふっと思う。あの桜の並木の中には、私の恋人が大きい林檎を噛んでいた。海添いの桜並木、海の上からも、薄紅い桜がこんもり見えていた。私は絵を描くその恋人を大変愛していたのだけれど、私が早い事会いに行けないのを感違いして、そのひとは町の看護婦さんと一緒になってしまった。ベニのように、何でもガムシャラでなくてはおいてけぼりを喰ってしまう。桜はまた新らしい姿で咲き始めている。――やがてベニはパパが帰って来たので、帯と足袋を両手にかかえると、よその家へ行くようにオズオズ帰って行った。別に呶鳴り声もきこえては来ない。あのパパは、案外ケンメイなのかも知れないと思う。ベニが捨てて行った紙屑を開いてみたら、宿屋の勘定がきだった。

十四円七十三銭也。八ツ山ホテル、品川へ行ったのかしら、二人で十四円七十銭、しかもこれが四日間の滞在費、八ツ山ホテルと云う歪んだ風景が目に浮んでくる。

(四月×日)

ひからびた、鈴蘭もチュウリップも描き飽きてしまった。白樺のしおりを鼻にくっつけると、香ばしい山の匂いがする。山の奥深いところにこの樹があるのだと云うけれど、その葉っぱはどんなかたちをしているのかしら……粛々としたその姿を胸に描きながら、私は毎日こうして、泥絵具をベタベタ塗りたくっているのだ。