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しんぱん ほうろうき

新版 放浪記

林 芙美子

「女人藝術」1928(昭和3)年10月号~1930(昭和5)年10月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 247,330 字 · 497 页

青空文庫

台所口からのぞくと、そのひとのお母さんがびっくりして私を見た。お母さんはあわてた様子でどもりながら、風呂へ行っているよと云った。私はすうっとあきらめの風が吹いた。どうでもいいと思った。急いでさよならをして路地を出ようとすると、そのひとが手拭をさげて戻って来た。私は逢うなり十円貸して下さいと云った。もやの深い路地の中に、男は当惑した様子で、家へ戻って行った。そしてすぐ何か云いながら五円札を持って来て、これだけしかないと云って、私の手にくれるのだ。私は息が出来ないほど体が固くなっていた。罪を犯しているような気がした。あなたの平和をみだしに来たのではないのよ。美しいおくさんと仲良くお暮し下さいと云いたかった。私はまるで雲助みたいな自分を感じる。芝居に出て来るごまのはいのような厭な厭な気がして来た。走って路地を出ると、洋服屋の前で母はしょんぼり私を待っていた。私の顔を見るなり母は、「何処か便所はなかとじゃろか? どうしようかのう、冷えてしもて、足がつっぱって動けん」と云う。私は思いきって母をおぶい、近くの食堂まで行った。食堂の扉を開けると、むっとするほどゆげがこもって、石炭ストーヴがかっかっと燃えてあたたかい部屋だった。