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はるのとうぞく
春の盗賊
「文芸日本」1940(昭和15)年1月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 29,212 字 · 58 页
思い出す。チエホフの芝居にも、ひとりの気のきかない好人物が、「あわや、というまに熊は女を組み伏せたりき。あわや、というまに熊は女を組み伏せたりき。おや、これは、どういうわけだろう。きょうは、朝から、この言葉がふいと口をついて出て来て、仕様がない。あわや、というまに熊は女を組み伏せたりき、か。」などと、一向にぱっとしない、愚にもつかぬ文句を、それでも多少、得意になって、やはり自身の、ありあまる教養に満足しながら、やたらにその文句を連発してサロンを歩きまわって、サロンの他の客はひとしく、これには閉口するところが、在ったように記憶しているが、私は、いまだったら、観客席から、やにわに立ち上り大声あげて、その劇中の好人物に教えてやる。注意しろ! おまえは一週間以内に、どろぼうに見舞われるぞ。
不幸なことには、私には、そのように親切に警告して呉れる特志家がなかった。私は、それを神の意志に依る前兆のあらわれとも気づかず、あさましい、多少、得意になって、ばかな文句を、繰り返し繰り返し、これは、プルタアクの英雄伝の中にあった文句であろう、どうも文学的教養がありあまって、ちょっと整理もつきかねるて、などと、ああ穴があれば、はいりたい、そう思って湧き上る胸の不安を、なだめすかしていたものだ。