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ばんきく

晩菊

林 芙美子

「別冊文藝春秋」文藝春秋、1948(昭和23)年11月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 15,998 字 · 32 页

青空文庫

男に逢う前は、かならずこうした玄人っぽい地味なつくりかたをして、鏡の前で、冷酒を五勺ほどきゅうとあおる。そのあとは歯みがきで歯を磨き、酒臭い息を殺しておく事もぬかりはない。ほんの少量の酒は、どんな化粧品をつかったよりもきんの肉体には効果があった。薄っすりと酔いが発しると、眼もとが紅く染まり、大きい眼がうるんで来る。蒼っぽい化粧をして、リスリンでといたクリームでおさえた顔の艶が、息を吹きかえしたようにさえざえして来る。紅だけは上等のダークを濃く塗っておく。紅いものと云えば唇だけである。きんは、爪を染めると云う事も生涯した事がない。老年になってからの手はなおさら、そうした化粧はものほしげで貧弱でおかしいのである。乳液でまんべんなく手の甲を叩いておくだけで、爪は癇性なほど短く剪って羅紗の裂で磨いて置く。長襦袢の袖口にかいま見える色彩は、すべて淡い色あいを好み、水色と桃色のぼかしたたづななぞを身につけていた。香水は甘ったるい匂いを、肩とぼってりした二の腕にこすりつけておく。耳朶なぞへは間違ってもつけるような事はしないのである。きんは女である事を忘れたくないのだ。