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つきかげ

月かげ

豊島 与志雄

「婦人公論」1924(大正13)年7月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 6,867 字 · 14 页

青空文庫

と同時に、彼は物に慴えたように立上った。

「僕はもう帰ります。……勘定をしてくれない。」

私は呆気にとられて彼の顔を見守った。彼は心持ち蒼ざめて、きょろきょろあたりを見廻したが、突然に云い出した。

「実は、今日は私が心中をしそこなった日なんです。丁度二月前の今日なんです。女は死んでしまいましたが、私だけ汽車にはね飛ばされて、不思議に助かったんです。それから少し頭が変になりましてね、月の同じ日になると、無性に悲しくなったり嬉しくなったりして、自分でも訳が分らないんです。何だかがーんとして、しいーんとなって、それきり気が遠くなった時のことが、いつまでも頭の底に残ってるんですから、時々どうも……実際変ですよ。」

彼は今にも泣き出しそうな顔付になって、窓掛の縁から冷たい夜風の流れ込む開いた窓を一心に見つめていたが、それから両手に頭をかかえて、卓子の上につっ伏してしまった。

私は立上って、開いた窓を閉めに行った。誰も皆惘然として、口を噤んで眼ばかりぱちぱちやっていた。私は皆の方に背を向けて、窓から暫く外を眺めた。空に薄い綿雲がたなびいて、それにぼーっと明るい色がさしていた。