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みらいのてんさい
未来の天才
豊島 与志雄
「人間 第三卷七月號」人間社出版部、1921(大正10)年7月1日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 18,630 字 · 38 页
」と返辞をして、自分の室に上ってしまった。
室の中が妙にしんとしていた。私は机の上の時計を取って眺めた。そして喫驚した。まだ九時前だった。然しそんな筈はなかった。私は静子とあんなに長く歩き廻ったのだ。時計が違ってるに相違なかった。私はお上さんから話しかけられるのを避けるために、便所に行く風をして、その帰りに階段の上り口から尋ねた。
「只今何時ですか。」
ややあってお上さんの声がした。
「まだ九時十分前ですよ。……もうお寝みなさるんですか。」
「はい。」と私は思わず大きな声を出した。
私は二階に駆け上った。室の隅に布団を敷いて、すぐに寝てしまった。二つの時計が九時前だとすれば、やはりそうに違いなかった。何だか時間に騙されたような気がした。それが不安になってきた。私はその嫌な気持ちを追い払うために、ただ静子のことばかりを考えた。嬉しさと楽しさと得も云えぬ切なさとで、胸がきゅーっとつまってきた。彼女の香ばしい息吹きが、私の胸の底まで泌み通ってきた。どうすることも出来なかった。私は何度も寝返りをした。
私は自分の上にふりかかってきた幸福に、すっかり眩惑してしまっていた。