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まつばやしへんや
松林蝙也
山本 周五郎
「キング」大日本雄弁会講談社、1938(昭和13)年1月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 12,092 字 · 25 页
水をうめると見せて、実は熱湯の中へさらに熱湯を注いだのである。
――満ちた心気の弛むその虚、一分も外さずその虚を衝いたのである。――蝙也は歎息して、
「兵法の道ほど蘊奥の深いものはない、多年の研鑽にいささか会得したと信じていた蝙也も、一女子のおまえに狙われれば、こんなに無造作にしてやられる、まだまだ俺などは未熟者だな、――町、まさに蝙也の敗北だ、約束どおり暇をとらせるぞ」
そう云ったが、町はそこへ膝をついたまま袂で顔を蔽っている。――彼女は今こそ、自分の本当の気持が分ったのだ。
「――どうした。なんだ泣いているのか、家へ帰るのがそんなに嬉しいのか?」
「いえ、いえ違います」
町は噎びあげながら云った。
「旦那さま、お願いでございます、どうぞ今までどおりお側へおいてくださいませ」
「なに、なにを云う」
「お側へおいてくださいませ、町は……もうとてもお側から離れることができませぬ、たとえ側女でもいといませぬゆえ、どうぞ、どうぞお側において――」
真実の叫びだった、今にして知る、――あの時蝙也を憎んだと思ったのは、乙女の胸に生れて初めて芽した嫉妬であったのだ。そして、それはいよいよ暇が出るどたん場になって、はっきりと本当の姿を顕わしたのだ。