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けいまのげんそう

桂馬の幻想

坂口 安吾

「小説新潮 第八巻第一六号」1954(昭和29)年12月1日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 13,784 字 · 28 页

青空文庫

木戸六段が中座したのは午後三時十一分であった。公式の対局だから記録係がタイムを記入している。津雲八段の指したあと、自分の手番になった瞬間に木戸は黙ってスッと立って部屋をでたのである。

対局者の心理は案外共通しているらしく、パチリと自分でコマをおいて、失礼、と便所へ立つのはよく見かける風景であるが、相手がコマをおいた瞬間に黙ってプイと立って出て行くというのはあまり見かけないようだ。コマをおいた相手は小バカにされたような気がしないでもない。事実、津雲はいくらか気をわるくしたのであった。ところが木戸は立ったまま一時間すぎても戻らなかった。戻らないわけだ。木戸は用便をすましたあと、ふと庭ゲタをつッかけて宿をでてしまったのである。新聞社の係員も観戦の人々もそれに気づいたものがなかった。やがて旅館ではちょッとした騒ぎになったが、木戸は別段策したわけでもなく、ふとその気になって散歩にでただけのことであった。

その日は対局の二日目で、まさに終盤にさしかかって激戦の火蓋がきられたところであった。まだ形勢はどちらのものとも判じがたいが、まさに息づまろうという瞬間だから、木戸はちょッと息をぬきたくなったのである。