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ばいしのつえ

梅颸の杖

吉川 英治

「文藝春秋 オール読物号」1930(昭和5)年7月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 15,966 字 · 32 页

青空文庫

『ひと言、お礼をいってお別れしたいと存じまして』

『礼を』

『へい、あれを書いて戴いたり、たいへんな御散財をかけたりして』

『そんな辞儀には及ばない』

『あっしあ、今朝みたいなこんな嬉しいこたあ今だに覚えません。先生がお偉い人だということも、ここに来て皆さんのお話しぶりを聞いて吃驚したようなわけなんで。――しかも、そのお方の証を持って、仲間の奴らを見返してやるんだから、胸が透くようでございます。夜が明けたら、新しい草鞋を突っかけて、室の津へつばさを揚げて飛んで参ります。どうか御きげんよろしゅう』

『うむ、お前はそれで、とにかく一つの仕事をしたわけだな』

そう呟いた山陽の心には、厖大な稿本の八九分どおりまで校正の朱筆に染まって、あともう僅かな所も倦み疲れかけている日本外史の業が、陣痛のように、焦々と悩んでいた。

四郎次は、にっこりとして、

『それや先生、こちとらの身に取れば、立派な仕事でございますとも。金にならねえが、仲間の奴らにゃ、これからずんと押しの利く、一代の語り草でございますからね』

『もう辞儀はいい。早く行け』

『じゃ、ごめんなすって』

寝床から立つと、四郎次の足には、新しい草鞋がついていた。