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くすのきのはなし
楠の話
豊島 与志雄
「文章世界 第拾四卷第四號」博文堂、1919(大正8)年4月1日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 10,820 字 · 22 页
私はその間一度も楠の方へは行かなかった。然しあの日見たのと同じような人々が額に汗を流して楠を切り取ってる様が、はっきり私の頭の中に浮んでいた。
学校の帰りに友達が私に云った。
「君の家の楠は切られたのか。」
「うん!」と私は傲然として答えた。
楠が切られ、運ばれて、もう見知らぬ人々も来なくなった時、私は初めて一人で其処に行ってみた。
楠のあった跡に大きな穴が出来ていた。楠と並んだ大きい樫も切られて、枝葉を切り取った幹だけが地面に転っていた。石の稲荷堂は横の方にぽつりと据えられていた。そして向うに、楠や樫の小枝を結えた薪の束が山のように積んであった。あたりの様子が全く変っていた。そして私が一番驚異の感を懐いたのは、広い青空がすぐ真上に見られたことだった。地面の様子が変ったことは、前からいくらか想像していたが、楠と樫とが無くなったためにそういう広い青空がじかに見えようとは、全く思いがけないことだった。私は驚いて長く空を仰いでいた。何という青い澄みきった深さだろう。私は未だ甞てそんな清らかな純な空を見たことがないような気がした。そしてそれを見つめていると、心が朗らかに澄み返るのを覚えた。