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じろうものがたり
次郎物語
下村 湖人
03 第三部
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 117,781 字 · 235 页
それは、ゆうべ天神の杜を出た時のあのしみじみとした気持とは、あまりにもへだたりのある気持だった。彼は、春月亭の門の前を通る時ペッと唾を吐いたが、お内儀の部屋でお茶一杯ものまされず、からからになっていた口からは、ほとんど何もとび出さなかった。
歩いて行くうちに、白鳥会で上級生たちの口からおりおり聞かされた「幻滅」という言葉が、ふと頭に浮かんで来た。彼は、その言葉の意味が今はじめてはっきりわかったような気がした。そして大人の作っているいわゆる「実社会」というものが、急に自分たちではどうにもならない、不真面目な世界のように思われて来たのである。
(春月亭のお内儀なんて、特別の人間だ。)
彼は、一応そうも思ってみた。しかし、その考えは、なぜか、彼の意識の表面を軽く素通りするだけだった。彼の心ほ、すぐそのあとから、ひとりでにお内儀をとおして「実社会」の姿を見ていた。実利のまえには、人間の誠実をむざんにふみにじって顧みない、その冷酷な姿を見ていたのである。
しかも、彼の疑惑は、――それはさほどに深刻ではなかったかも知れないが、――いつの間にか、父に対してすら向けられていた。