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かじか
河鹿
岡本 綺堂
「婦人公論」1921(大正10)年7月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 5,671 字 · 12 页
隣りではいつでも、電灯を消して寝るのを知っているので、僕は別に怪しみもしなかった。そうして、僕も枕についたが、今夜はなぜか眼が冴えて寝付かれない。水の音に消されて雨の音は聞こえないが、時々に軒の樋をこぼれおちる雨だれの音で、今夜もまだ降りつづけているのが知られた。例の河鹿の声が哀れに寂しく聞こえる。僕は幾たびか寝返りをして、しまいには床の上に起き直って煙草をすいはじめた。枕元に置いてある懐中時計をみると、もう午前一時に近い。さなきだに泊り客の少ないこの宿は、ふけていよいよひっそりしている。
僕の神経はますます鋭くなって、とても安らかに眠られそうもないので、いっそ書物でも読もうかと思って、その本を取ろうとして寝床からはい出そうとする途端に、どこかで「パパア」というような声が突然に聞こえた。あたりがひっそりしているから、その声は僕の耳にはっきりと響いた。それはなんだか人間の声ではないらしい、もちろん、河鹿の声ではないらしい、しかも一種の悲しい哀れな、はらわたにしみ透るような声であったので、僕は思わずぞっとして、急にあたりを見まわしたが、電灯の明かるい僕の座敷のうちには何物かの忍び込んだらしい形跡もみえなかった。