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しぶやけのしそ

渋谷家の始祖

宮本 百合子

「中央公論」1920(大正9)年1月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 68,023 字 · 133 页

青空文庫

しかもそれが、高槻信と自署されているのを見て、正隆は思わず、何物かに胸を衝かれたような心持がした。

ただ、美くしい、ただ、素晴しい婦人として、彼方に眺めていた彼の観賞眼は、この三つの文字で俄に、その視線の距離を縮めてしまった。焦点が、グッと動いて心の真正面に移って来たのである。

子供の時分、よく母未亡人に連れられて遊びに行った、あの築山のある、泉水に緋鯉が泳いでいた家に、こんな娘が住んでいるのかと思うと、正隆は一種不可解な、謎を感じずにはいられなかったのである。

もう、二十にもなっているのなら、自分とは、たった五つ六つの違いである。

まだ漸く七つか八つだった自分が、

「おばちゃん、今日は」

と云いながら、紫天鵞絨(ビロード)の大黒帽子の頭を可愛く下げたその時分に、多分は、ろくに歩けもしない赤坊の信子が、母親の膝にでも抱かれて自分を見ていたのかと思うと、正隆の胸には、ついぞ湧いたことのない、一種の懐しさが後から後からと湧き上って来た。その懐しさも、曾て彼が一度ならず経験した種類のものとはどこか異ったところがある。

もっとあどけない。もっと、色が、ほんのりとした桃色である。