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こはん
湖畔
久生 十蘭
「文藝」1937(昭和12)年5月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 24,180 字 · 47 页
唇はキッと力みがあり、高い鼻に跨った睫毛の濃い大きな眼は、その中からいまにも黒い瞳が溢れだすかと思われるほどだッた。為永式の痴呆じみた美人相ではなく、都雅艶麗なうちに微妙な威容を含み、教養ある欧州のレヂーに比してすこしも遜色がない。
世にラヴ、オブ、ファースト、サイトということがある。シェークスピーアの戯作「ローミオ、アンド、ジュリエット」の中にも、一目見て恋の成立する場合を証明している。俺がその少女を見たときの感情は、あたかもそれに相当すると思われる。惚れたというだけでは足りない。正直に言えば、その瞬間から憑れたようになってしまッた。たぐいのない少女の美容にもよるが、それが恐れる色も忌み嫌うようすもなく、親し気に俺に挨拶するのを見て、たとえようのない愉悦の情にうたれ、枯渇絶望した俺の心に微かな希望が萌えだしたものだから、それやこれやで一層忘れ難くなッたのだ。
以来その容姿が眼から離れない。俤は夢寐の間にも忘れられず、もう一度姿を見たいと思う感情をとめることが出来ない。中年の所為としては不面目極まるが、終日、窓に倚って橋のほうばかり眺めていた。
四日ほど過ぎたが、少女は姿を見せない。