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こはん

湖畔

久生 十蘭

「文藝」1937(昭和12)年5月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 24,180 字 · 47 页

青空文庫

俺の心は鬱しているものだから、眼を楽しませてくれた底倉の景色もいまは味気なく、眼前に峭立する懸崖も頭を圧するように思われて不快でならない。すこし散策でもしようと、供も連れずに宿を出、小涌谷から六道地獄へ抜け、そこから蘆ノ湖の方へ上って行った。

天気晴朗で雲影なく、紺碧の湖は古鏡のように澄みわたり、そのおもてに箱根三国の翠巒が倒影している。俺は久し振りに運動したので心神の暢達をおぼえ、湖畔の石に腰を掛けて浮ヶ島の方を眺めていると、一艘のボートが湖上を漕弋して来た。白の洋装で髪をお垂下にし、丈の長い淡紅色のリボンを翻めかしながら力漕をつづけているのは、紛うかたなく彼の少女であッた。

俺はおのれの眼で見る実景をおのれで信じかねるような気持で、呆然と注視しているうちに、ボートはだんだんこッちへやって来るようすだから、震えあがッて逃げだそうとしていると、少女は俺のいるのを見て丁寧に会釈し、急に船首を廻して岸にボートを着けた。そうして淀まぬ眼差で俺の顔を瞶め、愛らしく首をかしげながら、

「お乗りになりませんか」

と人懐ッこく誘いかけた。

その挙動がどれほど清楚な情緒に充ち、どれほど優美な感情に溢れていたか、とても描き写すことが出来ぬ。