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こはん
湖畔
久生 十蘭
「文藝」1937(昭和12)年5月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 24,180 字 · 47 页
最初の日、陶がボートの中で語った話や身振り、結婚してからのさまざまな邪気ない遊戯、忘れていた細かいことが記憶に甦ってきて、事ごとに涙を絞らせる。
棺は広間に安置した。陶がオルガンを奏いて一人で遊んでいたその部屋である。棺の前には陶が好んでいた秋薔薇の花と博多人形を供えた。思えば、愛らしくもまた純真な妻であった。陶がどれほど優しく、真実で、愛情が深かったか、死なれて見るとそれがよくわかり、それだけに諦められぬ。今にして思えば、陶こそは、この世で真実に俺を愛してくれたたった一人の女だった。俺とても、心から陶を愛していたのだが、未熟な性情が迸出を阻んでいたのに過ぎない。今ならばと言ったッて、陶はもう死んでしまった。おのれの馬鹿がわかッた時には、陶はもうこの世におらぬのである。
棺の前に坐って、滅々と棚曳く線香の煙を見ていると、いかにも今生の別れというような気がして悲しくていたたまれぬ。人のいないところへ行って、思うさま泣いてやろうと思い、庭のつづきから裏の林へ入って行った。
小道の両側には、杉、楢、檜などが繁りに繁って、陽の目を蔽い隠すばかり。啄木鳥の声が樹林に木精し、深山にでもいるような気持がする。