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おぼるるもの

溺るるもの

豊島 与志雄

「中央公論」1928(昭和3)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 17,690 字 · 36 页

青空文庫

マントを着た背の高い男と、コートを着た背の低い女だ。低いというほどじゃないかも知れないが、男が高いので低く見えた。

向うではゆっくり歩いていたが、俺の方は急いでいたので、すぐに近づいた。一寸綺麗な女だった。眉を長くひいた眼瞼のくっきりした、細面のその顔が、素人ではなかった。そして……。

おや! と俺は思った。帽子を目深にかぶってる近眼鏡の、その男の顔に見覚えがあった。

チッ……俺は舌を鳴らして、物に躓いた風をして、道の端までよろけて、丁度そこにあった電燈の柱につかまって、屈みこんで下駄の鼻緒を調べる様子をした。燈台と同じに電燈も下暗しだ。その影から俺は、まともに光を受けてる男の顔を、横目ではっきり見て取った。片岡さんだ。片岡正夫だ。

十日ばかり前に一度逢ったきりだったが、俺はその顔とその名前とをよく覚えていた。人の顔や名前を記憶するのは大事な才能だ。

仲間の者二三人と、浅草の或るカフェーにはいった時、へぼ文士のジプさんが、雀の巣のような頭をした男と酒を飲んでいた。ジプさんというのは内緒の渾名で、雑文や批評や小説や戯曲や何でもかでも書きとばし、それを時々どこかにのせて貰い、三十すぎた独身者で、始終市内をうろつき、公娼でも私娼でも女給でも、相手は構わないが決して一人に馴染まない、凡ての点に於て僕は天下のジプシー