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しおかぜ

潮風

豊島 与志雄

――「小悪魔の記録」――

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 12,018 字 · 25 页

青空文庫

「とにかく、一本だけ。」

そして片野さんは、両の踵で器用に靴をぬいで、膝頭で小座敷の方へ上っていった。表からはいってくると、小椅子をそろえた卓子が五つ並んでる土間、それに続いて四畳半の座敷、それだけの店なのである。

芳枝さんは、向うにぼんやり立ってる佐代子に用を云いつけておいて、小皿の膳を運んできて、瓦斯ストーヴに火をつけた。がその方へは手もかざさず、じっと相手の顔に眼を注いだ。

「どうしたの?」

片野さんは、へんに神妙に彼女の顔を見返した。

「もう一時よ。」

「すみません。」そして片野さんはにやりと笑った。

「ばかね。あれから、家に帰らなかったんでしょう。」

片野さんはうなずいたが、こんどは眼付で笑っていた。

「ちょっと、気にかかることがあってね……。実は、あちこち、飲みあるいちゃったんだ。何だか、知ってる人にみんな逢いたくなったのさ。勿論、女だけなんだが。もうこれから、酒をのむこともあるまい、すっかり真面目になってしまうんだ。今晩がさいごだ。だから、晴れやかにぱっと、知ってる女にみんな逢ってしまおうと――分ってるだろう、ただ顔を知ってるだけだよ、変な関係なんか一人だってありゃあしない――そのみんなに、ぱっと逢って、さよならって、ぱっと帰ってしまいたかったんだ。