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ちちのてちょう

父の手帳

宮本 百合子

「中條精一郎」(追悼録)、国民美術協会、1937(昭和12)年1月発行

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 6,342 字 · 13 页

青空文庫

今度は家の内から出て、まるで庭を歩いているように具象的に話しました。こういう晩は父の機嫌は元より上々です。従って私も父の想像に自分の空想を綯い合わせ、二人で家と人間とを合作して喋ったりしました。二人の話をきいていると、まるで雲の上だね、これは母が傍からの批評です。今日、私の貧弱な常識の中に、ほんの少しばかりでも建築・美術についての内容が加えられているのは殆ど皆、こういう父の手帳を中心にしてこの団欒の遺産です。

晩年になってから、父は夕飯後の食堂で手帳をひろげることが追々少くなりました。仕事に対する父の愛が減ったのではなく、仕事について父の分担が年を経るままに変って来たのでした。そのことを、私は一度も父には直接申しませんでしたが、自分の心の中では或る避けがたい悲しみとして鋭く感じていました。文学と建築という仕事の質の相異というものを強く感じました。事務所が出来た時父は四十一二歳でしたでしょう。それから二十年ばかりの歳月が経つと、娘は益々建築家としての父の業績を愛し、理解しようと欲することが激しくなって来たのですが、父の側では、事務所の内部的組立が経営的に分化し、組織化され、父自身は元のように最初のスケッチから細部のプランまで自身が主としてやらないでよろしいことになった模様です。