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ちち

父

矢田 津世子

「日暦」1935(昭和10)年11月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 19,168 字 · 38 页

青空文庫

一

居間の書棚へ置き忘れてきたという父の眼鏡拭きを取りに紀久子が廊下を小走り出すと電話のベルがけたたましく鳴り、受話機を手にすると麻布の姉の声で、昼前にこちらへ来るというのであった。お父様が今お出かけのところだから、と早々に電話を切り、眼鏡拭きを持って玄関へ行くと沓脱ぎの上へ向うむきにステッキを突いて立っていた父は履物か何かのことで女中の福に小言を云うていたが、紀久子の来た気配に手だけをうしろへのべて、

「何をぐずぐずしとる。早くせんか」

と呶鳴った。

いつものように自動車の来ている門のところまで福と二人で見送ると、扉を開けて待っていた運転手へ父は会釈のつもりか、ちょっと頷くようにして乗った。そして紀久子が、

「行ってらっしゃいまし」と声をかけると、父はそれへ頷きもせずステッキの握りへ片肘をのせて心もち前屈みに向う側の窓へ顔をむけたなりで行ってしまった。

父の気難しいのは今はじまったことではない。尤も、母のいた頃は気難しいといっても口に出して女中をなど叱りつけるようなことはなく、いつも何かの不満を眉間の縦皺へたたみこんでいるという風であった。