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ぎせいしゃ
犠牲者
平林 初之輔
「新青年」博文館、1926(大正15)年5月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 18,364 字 · 37 页
一、小さな幸福
中学の課程すらも満足に了えていない今村謹太郎にとっては、浅野護謨会社事務員月給七十五円という現在の職業は、十分満足なものであった。自分のような、何処といって取柄のない人間を、大金を出して雇ってくれている雇主は世にも有り難い人であると、彼はいつも心から感謝していた。
彼は、それだけの給料で、ささやかながらも、見かけだけは堅牢な家庭生活を築き上げていた。彼の郷里である山陰道の農村から、殆んど富士山も見ないようにして、まっすぐに彼の家庭へとびこんで来た細君は、村の生活と、彼等二人の家庭生活とのほかには、世間のことは文字通り何も知らず、彼等の生活とちがった人生が、此の世の中にあり得るなどと考えたことすらもなかった。夫婦の生活というものは、月収七十五円の範囲内で営まるべきものと神代の昔からきまっているように想像していた。従って、現在の生活に満足している程度は、今村と同様若しくはそれ以上であり、今村が雇主に感謝していると同じように、彼女は、百姓娘の自分を人の羨む東京へつれて来て養ってくれている今村に、心からの感謝を捧げていたのである。