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ぎせいしゃ
犠牲者
平林 初之輔
「新青年」博文館、1926(大正15)年5月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 18,364 字 · 37 页
ところが、これは極めて不自然な説明となっている。何故かなら、あの打撲傷はかっきり脳天に受けているのであるから、真逆様に転んだのでなければ、あんなところに傷のできる気遣いはない。然るに歩いている人間が真逆様に転ぶことはあり得ない。第三に、事務所に彼が忘れて来た手袋がちょうど被害者のそばに落ちていたということは、あまりにもフェータルな暗合である。勿論手袋だけなら単なる一つの薄弱な情況証拠としかならぬが、他の証拠と重なり合って来ると、これは、容易ならぬ、殆んど決定的な価値を帯びてくるのである。その他にも彼は予審廷に於て、いろいろへまなことを申したてている。そして、一旦口外したことは嘘であろうが何であろうが、彼は断じて取り消そうとしない。前言を翻すのは男子の恥辱だと心得ている。男子の一言金鉄の如しというヒロイズムだけを彼は頑固に信じている。そんなわけで、彼の答弁は却って矛盾だらけになっているのである。これを要するに、彼はあまりに善良過ぎるために罪を背負って、その重荷を放すことができないという結論になって来る。
それというのも我が国の、いやひとり我が国のみならず、全世界の裁判制度なるものが、形式万能主義で、今村のような世にも珍らしい被告の心理に彩られた複雑な事件をさばくようにはできていないからである。