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かぐらざか

神楽坂

矢田 津世子

「人民文庫」1936(昭和11)年3月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 19,611 字 · 40 页

青空文庫

紅谷の二階へ上って汁粉を食べながら昔話がひと区切りつくと、琴子は仕合せな身上話を初めた。婿さんの新吉さんは五ツちがいの今年二十八で申分のない温厚な銀行員。毎日の帰宅が判で押したように五時きっかりなの。ひとりでは喫茶店へもよう入れないような内気なたちなので、まして悪あそびをされる気苦労もなし、何処へ行くのにも「さあ、琴ちゃん」何をするのにも「さあ、琴ちゃん」で、あたしがいないではからきし意気地がないの。まるで、あんた、赤ん坊よ。――と、いかにも、愉しそうな話しぶりである。それに惹きいれられて、お初が琴子の新世帯をああもこうも想像していると、

「お初ちゃんはどうなの?」

ときかれた。

「ええ、あたし……」

と云うたなり、うまく返事が出てこない。それなり俯向いて黙りこんでいると、お初の髪から履物まで素ばしこく眼を通していた琴子は、ふっと気が付いたように時計をみて、

「もう、そろそろ宅の戻る時間ですから……」

と、別れを告げた。

紅谷の前に立って琴子のうしろ姿を見送っていたお初は何やら暗い寂しい気もちになって今にも泣きたいようである。仕合せな琴子にくらべてわが身のやるせなさが思われる。