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きょうそう
競漕
久米 正雄
「新思潮」1916(大正5)年6月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 16,312 字 · 34 页
妙な緊張した不安に襲われながら、彼は少し湿々した土地に腰を下ろして夕日の中に蹲まった。目の前は千住の方から来た隅田の水が一うねり曲って流れ下る鐘ヶ淵の広い川幅である。幾つかの帆や船が眼の前を静かに滑べって行く。向う岸には紡績の赤い壁がぱっと日を受けて燃えている。彼はそれを越えて遠く春には珍らしい晴れ渡った東方の空と、そしてさらに頭上高くの白黄色を帯びた無限の天空をずっと仰いだ。何だか珍らしいものを見るような気持でしばらくは我を忘れていたが、ふと自分の任務を思い返して上流の方をすかして見た。するといつの間に来たものか鐘ヶ淵の汽船発着所の上手に農科の艇らしいのが休んでいる。急いで望遠鏡を取り出して眺めると、舵手の着ている目印の黒マントルがはっきり鏡底に映じた。彼ははっと思って蘆の間に身を潜め、四辺を見巡して微笑んだ。ここに敵の一人が見ているとも知らず、そのうち彼らは動き出した。整調の櫂につれて六本の黄色い櫂がさっと開いて水に入った。久野は片手にストップ・ウォッチを持ち、片手に望遠鏡を押えて息を殺した。彼らは手馴らしに数本を漕いだ後、今や力漕に入ろうとしている。