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きょうそう

競漕

久米 正雄

「新思潮」1916(大正5)年6月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 16,312 字 · 34 页

青空文庫

「さ行こう!」と言う舵手の声がはっきり久野の耳に入った。彼は急いでストップ・ウォッチの釦を押した。針はこちこち秒数を刻み初めた。一本、二本、三本……。敵の艇は水を切って彼の眼前一町ほどのところを鮮かに漕いでゆく。三番がスプラッシュをして櫂で水を跳ね上げるのまではっきり見える。彼は夕日の掠めた川面を一直線に走る敵艇のほか何も見なかった。一分、二分、三分……。やがて彼らは漕ぎ止めた。久野は敵のスタートとストップの位置をもう一応確かめて、漕いだ本数及び時間を頭脳の中にしっかり記憶した。そしてほっと息を吐いて妙な快感を感じながら立ち上った。

久野が満足して渡しを渡って向うの汽船発着場へ行くとそこに法科の先輩が立っていた。そして「やあ今日はスパイかい。今ここから三分力漕した農科を見たかい」と聞いた。久野は笑ってうなずいた。

翌くる日の夕方、文科の短艇はわざわざ漕ぎ帰る時間を早めて、昨日の農科と同じ時刻に同じコースを三分間力漕して見た。そして敵の艇が思ったよりよく出るのを知った。久野は何だか自分の艇も誰れかに偵察されてるような気がして、仔細に両岸を望遠鏡で調べた。