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たでくうむし

蓼喰う虫

谷崎 潤一郎

「大阪毎日新聞 夕刊」1928(昭和3)年12月3日~1929(昭和4)6月17日<br>「東京日日新聞 夕刊」1928(昭和3)年12月3日~1929(昭和4)6月18日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 110,066 字 · 216 页

青空文庫

今日も申し分のない天気ではあるが、こんな時分に遊山に出かける閑人はあまりいないと見えて、遊覧船風にゆっくりと仕立ててある特等の客室は、二階の西洋間の方も階下の日本室の方もガランとしている。要は手提げ鞄にもたれて畳に両脚を投げ出しながら、海の光が人気のない天井へぎらぎら波紋を走らせるのを眺めていたが、瀬戸内の春のなごやかさはその薄明るい船室に青く映って、ときどき通り過ぎる島かげから、花の匂いが潮の香と共に忍びやかに襲って来るようである。おしゃれと旅馴れないのとで一日二日の旅行にも着換えを用意して出た彼は、帰りは和服で通していたのを、ふと或る事を思いついて誰もいないのを幸いに急いでグレイ・フランネルの背広に着換えた。そして、それから何時間かを過した後に頭の上でガラガラ錨を巻き上げる音が聞えるまで、うとうと眠り通してしまった。

船が兵庫の島上へ着いたのはまだ昼前の十一時ごろであったが、要は真っ直ぐ家へは帰らずに、オリエンタル・ホテルの食堂で三四日振りに脂っこい物を昼食に取り、食後にベネディクティンの一杯を二十分もかかってゆっくりと飲んでから、その浅い酔いのさめきれぬうちに山手のミセス・ブレントの家の前で車を降りて、持っていた蝙蝠傘の握りの端で門の呼び鈴のボタンを押した。