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とうじゅうろうのこい

藤十郎の恋・恩讐の彼方に

菊池 寛

菊池寛『藤十郎の恋・恩讐の彼方に』。同一底本的分册已合并为一书。收入:藤十郎の恋、ある恋の話、入れ札。

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 37,146 字 · 74 页

青空文庫

母屋からは一段と、河原の中に突出ている離座敷には、人の気勢もなかった。ただほんのりと灯っている、絹行燈の光の裡に、美しい調度などが、春の夜に適しい艶めいた静けさを保っていた。藤十郎は、人影の見えぬのを心の中に欣んだ。彼は、床の間に置いてあった脇息を、取り下すと、それに右の肱を靠せながら、身を横ざまに伸したのである。

が、騒々しい酒宴の席から、身を脱れた欣びは、直ぐ消えてしまって、芸の苦心が再びひしひしと胸に迫って来る。明日からは稽古が始まる。肝腎要の茂右衛門の行き方が、定らいでは相手のおさんも、その他の人々もどう動いてよいか、思案の仕様もないことになる。己が工夫が拙うては、近松門左が心を砕いた前代未聞の狂言も、あたら京童の笑い草にならぬとも限らない。こう思いながら、藤十郎は胸の中に渦巻いている、もどかしさを抑えながら、一途に心をその方へ振り向けようとあせった。

その時である。母屋の方から、とんとんと離座敷を指して来る人の足音が、聞えて来た。

七

折角、さわがしい酒席を逃れて、求め得た静かな場所で、芸の苦心を凝らそうと思っていた藤十郎は、自分の方へ近づいて来る人の足音を聞いて、心持眉を顰めぬ訳には行かなかった。