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にんしきろんとしてのぶんげいがく
認識論としての文芸学
戸坂 潤
「唯物論研究 五十一号」1937(昭和12)年1月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 9,350 字 · 19 页
それは悪くはないが、併しこういう点をまず考えて見る必要がある。支那仏教の過去に於ける文化的思想的内容は、今日の支那をも日本をも本当に文化的・思想的・に規定しているのではない。なる程一部の文化財の遺産としては勿論何等かの現代文化の要素にはなっているが、併しそれは現在の支那や日本の文化的・思想的・進歩の力となっているのではない。それに独力の力があるとすれば寧ろ復活的・反動的・な力に過ぎないのが、今日の事実だ。僧侶の社会理論の如きがその好い例だろう。処でここに文献学なるものの権限が、おのずから明らかになるのである。つまり文献学なるものは、それ自身では何ら時代の実際問題の解決を与えることの出来るものではない、ということなのである。文献的知識は文化的・思想的・課題にとって欠くことの出来ない一つの歴史学的手段ではあるが、もしその手段が独立して支配的な認識方法となるなら、途方もない思想文化の姿が現前することになる。文献学はそういう制限を持った一つの手段科学だ。吾々は支那仏教(一般に仏教でもいい)のカテゴリーを以て現下の資本主義社会の何物をも分析出来ないだろう。