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きんせいかいじんでん
近世快人伝
夢野 久作
「新青年」1935(昭和10)年4月号~10月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 79,469 字 · 157 页
「北海道の山奥で雪に埋れていると酒と煙草が楽しみでなあ。炉の火で吸う煙草の味は又格別じゃ。もっとも煙草は滅多に切れぬが酒はよく切れたので閉口した。万止むを得ん時には砂糖湯を飲んだなあ。アルコールも砂糖も化学で分析してみると同じ炭素じゃけになあ」
筆者はイヨイヨ全く痛み入ってしまった。同時にそこまで考える程に苦しんだ翁が気の毒にもなった。
国府津に着いてから正宗の瓶と、弁当を一個買って翁に献上すると、流石に翁の機嫌が上等になって来た。同時に翁の地声がダンダン潤おいを帯びて来て、眼の光りが次第に爛々炯々と輝き出したので、向い合って坐っていた二人が気味が悪くなったらしい。箱根を越えない中にソコソコと荷物を片付けて、前部の車へ引移ってしまったので、翁は悠々と足を伸ばした。世の中は何が倖になるかわからない。筆者もノウノウと両脚を踏伸ばして居ねむりの準備を整える事が出来た。その二人の脚の間へ翁が又、弁当箱の蓋にオッ立てた蝋燭の火を置いたので、筆者は又、油断が出来なくなった。
翁は一服すると飯を喰い喰い語り出した。
「北海道の山の中では冬になると仕様がないけに毎日毎日聖書を読んだものじゃが、良え本じゃのう聖書は……アンタは読んだ事があるかの……」