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ついおくのとうや

追憶の冬夜

寺田 寅彦

「短歌研究 第三巻第十二号」1934(昭和9)年12月1日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 4,522 字 · 9 页

青空文庫

だり手と拍いたりした。その時主婦のルコック夫人が甲高い声を張上げて Elle a rougi ! elle a rougi ! と叫んだ。私はそのときの主婦の灰汁の強過ぎるパリジェンヌぶりに軽い反感を覚えないではいられなかったのであった。

あとで担保に入れてあったガージュを銘々に返していたとき、一本の鉛筆をさし上げて「これはどなたのでしたか」と主婦が尋ねたら、一座の中の二人のイタリア女の若い方が軽く立上がって親指で自身の胸を指さし、ただ一言ゆっくり静かに Il mio. と云った。そのときほど私はイタリア語というものを優美なものに思ったことはないような気がする。

ドイツの冬夜の追憶についてはもう前に少しばかり書いたような気がするが、今この瞬間に突然想い出したのはゲッチンゲンの歳暮のある夜のことである。雪が降り出して夜中には相当積もった。明りを消して寝ようとしていると窓外に馬の蹄の音とシャン/\/\という耳馴れぬ鈴の音がする。カーテンを上げて覗いてみると、人気のない深夜の裏通りを一台の雪橇が辷って行く、と思う間もなく、もう町のカーヴを曲って見えなくなってしまった。