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ゆけるマクシム・ゴーリキイ
逝けるマクシム・ゴーリキイ
宮本 百合子
「婦人公論」1936(昭和11)年8月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 8,396 字 · 17 页
祖父は一つの行事として男の子供らを裸にし、台所のベンチへうつ伏せに臥かせ、樺の鞭でその背中をひっぱたくのであった。ゴーリキイはこの屈辱に堪えることが出来なかった。幾度も抵抗して猶更ひどくひっぱたかれ、とうとう気絶し熱を出して永い病気になってから、さすがの祖父もゴーリキイに手を出すことは止めにした。
こういう幼年時代の暗い境遇の中で、ゴーリキイの心に消えぬ光明と美の感情を与えていたのは祖母アクリーナの風変りな存在であった。若い時分は孤児で乞食をして生き、レース編みを覚えてからはその勝れた腕前で食っていた祖母は、どん底の閲歴の中から不思議な程暖い慾心のない親切と人間の智慧のねうちに対する歪められない信頼とを身につけていた。民謡を上手に唄い、太った体つきのくせに魅力のこもった踊りかたをし、特にその物語りは、聴きてを恍惚とさせる熱と抑揚と色彩をもっていた。祖父の留守の夜の台所の炉辺の団欒で、或は家じゅうを巻きこむ狂気騒ぎから逃げ込んで屋根裏の祖母さんの部屋の箱の上で、ゴーリキイが話して貰った古代ロシアの沢山の伝説、盗賊や巡礼の物語は、息づまる生活の裡からゴーリキイの心に広い世の中の様々な出来事に対する好奇心、生活の歓びを養ったのであった。