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ぎんさんじゅうまい
銀三十枚
国枝 史郎
「新青年」1926(大正15)年3月~5月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 35,863 字 · 73 页
円頓寺街路を歩いていた。霧の深い夜であった。背後から自動車が駛って来た。
「馬鹿野郎!」と運転手が一喝した。
危く轢かれようとしたのであった。憤怒をもって振り返った。窓のカーテンが開いていた。紳士と淑女とが乗っていた。私は淑女に見覚えがあった。それは私の妻であった。彼女も私を認めたらしい。唇の間から義歯を見せた。紳士にも私は見覚えがあった。当市一流の紳商であった。新聞雑誌で知っていた。六十を過ごした老人で精力絶倫と好色とで、世間に有名な老紳士であった。
私はクラクラと眼が廻った。が、飛びかかっては行かなかった。肩を曲め背を丸め、顔を低く地に垂れた。そうして撲たれた犬のように、ヨロヨロと横へ蹣跚いた、私は何かへ縋り付こうとした。
冷たい物が手に触れた。それは入口の扉であった。私は内へ吸い込まれた。
真正面に人がいた。狭い額、飛び出した眼、牛のような喉、突き出した頬骨、イスカリオテのユダであった。
珈琲店であった。鏡であった。私は写っていたのであった。
イエス・キリストがそれを呪った。マグダラのマリヤがそれを呪った。イスカリオテのユダがそれを呪った。