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おしゃく
雛妓
岡本 かの子
「日本評論」1939(昭和14)年5月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 26,482 字 · 53 页
それよか、疲労れてなければ、おい、これから飯を食いに出掛けよう。服装はそれでいいのか」
と言って立上った。わたくしは、これも、なにかの場合に機先を制してそれとなくわたくしの頽勢を支えて呉れるいつもの逸作の気配りの一つと思い、心で逸作を伏し拝みながら、さすがに気がついて「一郎は」と、息子のことを訊いてみた。
逸作はたちまち笑み崩れた。
「まだ帰って来ない。あいつ、研究所の帰りに銀座へでも廻って、また鼻つまりの声で友達とピカソでも論じてるのだろう」
弁天堂の梵鐘が六時を撞く間、音があまりに近いのでわたくしは両手で耳を塞いでいた。
ここは不忍の池の中ノ島に在る料亭、蓮中庵の角座敷である。水に架け出されていて、一枚だけ開けひろげてある障子の間から、その水を越して池の端のネオンの町並が見亙せる。
逸作は食卓越しにわたくしの腕を揺り、
「鐘の音は、もう済んだ」と言って、手を離したわたくしの耳を指さし、
「歌を詠む参考に水鳥の声をよく聞いときなさい。もう、鴨も雁も鵜も北の方へ帰る時分だから」と言った。
逸作がご飯を食べに連れて行くといって、いつもの銀座か日本橋方面へは向わず、山の手からは遠出のこの不忍の池へ来たのには理由があった。