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きりのなか

霧の中

豊島 与志雄

――「正夫の世界」――

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 19,920 字 · 40 页

青空文庫

それから少したってからだ。婆さんは病院にやっていった。丁度院長の回診の時だ。大勢いっしょにはいってる三等病室で、院長は医員や看護婦を随えて、一わたり診てしまって、出て行こうとした。そこには、扉を背にして、一人の婆さんがつっ立っている。棒のようにつっ立って、頭をこまかく震わせて、ぎらぎらした目付で、室の中をじっと見廻している。だが本当は何も見ていないで、視線は宙に迷ってるのだ。その近くまで行って、院長は初めて気がついた。ぎょっとして立止った。婆さんは動こうともしない。ただならぬ気配になった。幸にも、医員のうちに、婆さんを見覚えてる者がいた。それから騒ぎで、ただぼんやりしてる婆さんを、いろいろ宥めすかしたり、道理を説いてきかしたり、しまいに看護婦をつけて送り届けた。

家の者たちは始末に困った。時々気がへんになるというだけで、狂人ときまったわけじゃない。すると気の利いた医者がいて、婆さんの室に、亡くなった娘の形見の着物を一枚、衣紋竹にかけて吊さした。ただぶら下ってるだけの着物だが、効果があった。それを見て、婆さんはおとなしくなった。それから寝ついた。