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ふうちそう
風知草
宮本 百合子
「文芸春秋」1946(昭和21)年9~11月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 44,107 字 · 88 页
それにしても、どうして、よりによって重吉は、この混雑の中でこんな話をしはじめたのだろう。ひろ子は、気をとり直し、元禄袖のかげから顔を出して、重吉の耳のそばへ囁いた。
「ここは、あんまり話しいい場所じゃないわ。そうでしょう? 降りてから。ね……」
「――そうか」
重吉は、ひろ子の気もちや周囲の状況が、はじめてわかったという風に、無邪気におかしそうに笑った。
「でも、どうして急におっしゃるの?」
「どうしてってことはないが、考えたからさ――どうせほかにすることがないんだからこんなとき話しといた方がいいだろう?」
「大抵の人は、こんなところでは話し出さないと思うわ」
ひろ子は、小さくほほえんだ。
「それに……いまはあなたもわたしも、おなかがすいているでしょう? わたしはどうしても、これになってしまうからね」
ひろ子は、指さきで頬っぺたを涙がころがりおちる形をしてみせた。
西へ向って真直に二本、アスファルト通がとおっている。左右は、おそろしく高い切り通しの石だたみで、二つの崖をつなぐ鉄の陸橋が、宵空に太く黒く近代都市らしい輪郭を浮き出させている。この高台は、昔東京の海がずっと深く浅草附近まで入りこんでいたそれより昔、武蔵野の突端をなして、海へきっ立っていた古い地層である。