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こうでん

香奠

豊島 与志雄

「時流」1925(大正14)年3月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 22,989 字 · 46 页

青空文庫

「自分でも寒いでしょうにね。」と妻は私に云いました。

それは寒いに違いありません。ただでさえ身を切るような北風に、雨や雪が交っていては、普通の者は到底我慢しきれるものではありません。が平田伍三郎は平気でした。耳朶のはじは凍傷で赤くふくらみ、鼻の頭は真赤になっても、更に徒歩主義を捨てませんでした。それも金がなくて電車に乗れないのなら別ですが、彼はそれくらいの金は充分持っていましたし、或時なんかは、十四円もする舶来の上等な万年筆を買ったりしていたのです。彼は習慣的というよりも寧ろ本能的に、毎日いくらかでも歩かずにはいられなかったようです。日曜日には必ず半日くらい散歩しました。

そういう風に歩くことの必要からか、彼は私の家にいる間は、一日も学校を休まなかったようです。けれども、大して勉強に熱心でもありませんでした。一つは、きまった勉強室がなくて、客間の片隅を使っているために、落付かなかったせいもありましょうが、「まだ一年あるから、」とゆっくり構えこんで、家では大抵子供相手に遊んでいました。

彼は至って子供好きのようでした。それでも、自分から進んで子供を遊ばせるというのではなく、ただ黙ってにこにこ笑いながら、子供の相手になってるのを楽しむという風でした。