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きりん
麒麟
谷崎 潤一郎
「新思潮 第四号」1910(明治43)年12月1日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 9,040 字 · 18 页
夫人は香函を開いて、さま/″\の香を一つ一つ香炉に投げた。七すじの重い煙は、金繍の帷を這うて静に上った。或は黄に、或は紫に、或は白き檀香の煙には、南の海の底の、幾百年に亙る奇しき夢がこもって居た。十二種の鬱金香は、春の霞に育まれた芳草の精の、凝ったものであった。大石口の沢中に棲む龍の涎を、練り固めた龍涎香の香、交州に生るゝ密香樹の根より造った沈香の気は、人の心を、遠く甘い想像の国に誘う力があった。しかし、聖人の顔の曇は深くなるばかりであった。
夫人はにこやかに笑って、
「おゝ、先生の顔は漸く美しゅう輝いて来た。妾はいろ/\の酒と杯とを持って居る。香の煙が、先生の苦い魂に甘い汁を吸わせたように、酒のしたゝりは、先生の厳しい体に、くつろいだ安楽を与えるであろう。」
斯く云う言葉の下に、銀冠を戴き、蒲桃の帯を結んだ七人の女官は、様々の酒と杯とを恭々しく卓上に運んだ。
夫人は、一つ一つ珍奇な杯に酒を酌んで、一行にすゝめた。其の味わいの妙なる働きは、人々に正しきものの値を卑しみ、美しき者の値を愛づる心を与えた。碧光を放って透き徹る碧瑶の杯に盛られた酒は、人間の嘗て味わぬ天の歓楽を伝えた甘露の如くであった。