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おさん

おさん

山本 周五郎

「オール読物」文藝春秋新社、1961(昭和36)年2月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 33,128 字 · 66 页

青空文庫

「おらあ女房子を捨てた、おさんもそれまでいっしょにくらしていた男を捨てた」と作次は続けていた、「おれがしんけんだったのは断わるまでもねえ、おさんもしんじつおれが好きなようだった、――だが、あのときになると、いざっという間際になると、おさんは夢中で男の名を呼びはじめる、おれの知らねえ男の名をだ、――それを聞くと、とたんにおれは、躯ぜんたいが凍っちまうように思った」

新しい酒が来た。参太が作次の前へ置いてやると、彼は汁椀を取って、中の物はすっかり土間へあけ、酒をその汁椀へ注いで呷った。

「男にとってこれほど痛えことがあるか、おらあかっとなって、叩き起こしておさんを責めた、悪党が」と作次は呻き声をあげ、左手で髪の毛を掴みしめた。「この悪党が、おさんを殴り、叩き倒し、足蹴にかけた、――可哀そうに、おさんはあやまるばかりだった、自分ではなにも知らない、そんな男の名は知らない、夢中でわけがわからなくなっただけだ、あんたのほかにみれんのある男などはいない、どうか堪忍してくれって」

やっぱりそうだったのか、と参太は心の中で呟いた。あのたまゆらぐ一瞬のありさまが、こまかい部分まで鮮やかに思いだされる。