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おもかげ

おもかげ

宮本 百合子

「新潮」1940(昭和15)年1月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 9,997 字 · 20 页

青空文庫

ねえ、マーリア・フョードロヴナ」

といきなり向い側にいる技師の細君に話頭を向けた。

「私はトルストイの場合として、理解されると思いますよ」

白い髪の幾条か見える細君はおだやかにフォークを動かしながら普通に答えている。そこには何か感じられる雰囲気があるのであった。

朝子と素子とヴェルデル博士と三人で、二哩ばかりはなれた野の中に建っている廃寺へ壁画を見に行って、ぐるりとその堂の裏手へまわったら、思いがけない灌木の蔭でその技師とエレーナと腕を組み合った散歩姿で来るのに出くわした。どっちからも、もう避けることが出来なかった。するとエレーナがはしゃいだ高調子で、

「思いがけないこと!」

そのまま真直近づいて来た。

「お邪魔になりまして?」

ヴェルデル博士は黒い帽子の縁にちょっとふれて、極めておだやかなうちに一抹の苦みをもって、

「私には誰が誰の邪魔をしたか分りませんよ」

技師にも会釈して、こちらの一行は行きすぎた。そんなこともあった。

土曜、日曜には、全くちがう若々しい波が停車場から溢れ出て、美術館を中心の一公園から街路から一杯になった。下宿の露台から見える公園の入口の歩道の上には向日葵の種売り、林檎売り、揚饅頭売りが並んだ。