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さまよえるユダヤじんのしゅきより

さまよえるユダヤ人の手記より

寺田 寅彦

「思想」1929(昭和4)年9月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 5,155 字 · 11 页

青空文庫

そうだとしてそれを今頃気が付いたとすれば、なるほどこれは頭の悪い証拠になるかもしれない。演芸風聞録の頭のいい記者はたぶんこの意味で書いたに相違ないのであるが、これにこれだけの注釈をつけることも出来るのである。

二 玉虫

夏のある日の正午駕籠町から上野行の電車に乗った。上富士前の交叉点で乗込んだ人々の中に四十前後の色の黒い婦人が居た。自分の隣へ腰をかけると間もなく不思議な挙動をするのが自分の注意をひいた。ハンケチで首筋の辺をはたくようなことをしている。すると眼の下の床へぱたりと一疋の玉虫が落ちた。仰向きに泥だらけの床の上に落ちて、起き直ろうとして藻掻いているのである。しばらく見ていたが乗客のうちの誰もそれを拾い上げようとする人はなかった。自分はそっとこの甲虫をつまみ上げてハンケチで背中の泥を拭うていると、隣の女が「それは毒虫じゃありませんか」と聞いた。虫をハンケチにくるんでカクシに押し込んでから自分はチェスタートンの『ブラウン教父の秘密』の読みかけを読みつづけた。

研究所へ帰ってから思い出してハンケチを開けてみると、だいぶ苦しんだと見えて、糞を沢山にひり散らした痕がハンケチに印銘されていた。