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そのとし
その年
宮本 百合子
「宮本百合子選集 第五巻」安芸書房、1948(昭和23)年2月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 13,964 字 · 28 页
お茂登はポンプを押す手をやめて表へ行った。
「これへ、いつもだけ油おくれ」
繩でぶら下げたサイダー瓶をつき出した。
「どんな油やったっけ」
瓶をかいで見ると、胡麻油の匂いであった。
「もう先月から胡麻はどこへも来んようになってしまった。こんどっからは白菜種やるからな、おっかさんによくそう云うんで」
合点して出て行ったと思うと、すぐ、
「兎が出とらあ」
と告げて来た。兎は前の家で副業に飼っているのであった。急に肉も毛皮も価が出たので、工場通いの亭主が、これも工場へ出ている息子と手製で裏へ飼棚をこしらえた。お茂登は、何かのはずみで往来へ出ている眼の真赤な兎を、つかまえどころがわからなくて、しっしっと下駄を鳴らして囲いの中へ追い込んだ。
前掛で手を拭きながら、お米が流し元から出て来た。
「また出ましたか」
その兎を一つの棚へ入れたり、藁を代えたりするのを、お茂登はわきで見物していたが、
「信造さんのお勤めの話はその後どうなりました」
と、思い出して訊いた。
「はア、あれはやめにいたしました」
お米は、鉄工である亭主とまるで違う都風なとりなしで答えた。
「目の前はいいようにありますが、あっちへ行けば臨時なそうで、先がどうとも分らんから、マア十二年勤めて来たところはのくまいといっとりました」