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はなしのはなし

はなしの話

岡本 綺堂

「報知新聞」1937(昭和12)年7月24~27日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 3,486 字 · 7 页

青空文庫

なぜか知らないが、その時の私はひどく感傷的になった。何十年の間、甘い物も食った。まずい物も食った。八百善の料理も食った。家台店のおでんも食った。その色々の思い出がこの歯一枚をめぐって、廻り灯籠のように私の頭のなかに閃いて通った。

私はその歯を把って海へ投げ込んだ時、あたかも二尾の大きい鱶が蒼黒い脊をあらわして、船を追うように近づいて来た。私の歯はこの魚腹に葬られるかと見ていると、鱶はこんな物を呑むべくあまりに大きい口をあいて、厨から投げあたえる食い残りの魚肉を猟っていた。私の歯はそのまま千尋の底へ沈んで行ったらしい。わたしはまだ暮れ切らない大洋の浪のうねりを眺めながら、暫くそこに立尽していた。

前の下歯と後の上歯と、いずれもそれが異郷の出来事であったために、記憶に深く刻まれているのであろうが、こういう思い出はとかくにさびしい。残る下歯六枚については、あまり多くの思い出を作りたくないものである。(昭和十二年七月)