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わがあいするしじんのでんき(さん)
わが愛する詩人の伝記(三)
室生 犀星
――萩原朔太郎――
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 11,406 字 · 22 页
マントの前釦は一つしかかけていないし、ふだん着のまま古下駄をはいていたが、ときには近くへは素足のままであった。家に戻れば梯子段をとぼとぼと千里の峠を踰えるように登り、すぐ床にもぐり込むのだが、声量あざやかな前夫人は、(つまり葉子さんが呼んでつれて来たところの)眼の美しい彼女はいまごろ何処まで行って飲んでいたのよ、服も帽子も泥ンこじゃないの、毎晩毎晩なにが面白くてほっつき歩いているのよと叱っても、わが萩原朔太郎はふ、ふ、と笑ってまあそこに坐れよと言うのである。そして目をとじるとどんなに起してももう眼はさまさなかった。何たるぐにゃぐにゃさんだったことか、女給サンなんぞさんざ美しいのを見て来てさ、坐れもないもんだとまだ彼女は洋服をたたみながら言っても、とうにわが愛する友は寝込んで了って、なにも耳の中には妻の言葉ははいらなかったのだ。
家庭
古き家の中に坐りて
互に黙しつつ語り合へり。
仇敵に非ず
債鬼に非ず
「見よ われは汝の妻
死ぬるとも尚離れざるべし」
眼は意地悪く 復讐に燃え
憎々しげに刺し貫ぬく。
古き家の中に坐りて
脱るべき街もあらじかし。
我れの持たざるものは一切なり